2023年6月1日木曜日

なぜ人は「個の力に頼らない」「個の力を必要としない」システムという幻想を抱くのか?

日本特有なのか、それとも違うのか、それは明確ではないのだが、日本でサッカーなり組織論を語る時に、「個の力に頼らない」「個の力を必要としない」、そういうシステムが存在し、あるいは、それが理想のシステムである、と考える人たちというのが、一定数、存在している事に気が付かされる。組織論において、個の力に頼る、個の力で局面(問題)を打開する、という事を「戦術が無い」と非難し、それは「劣」だと考える傾向は弱くない。

マニュアル的である事を「善」であると考えているとも言える。

率直に言わせてもらえるならば、それは「わかっているふう」の類の人たちが、そう考える事が多いのではないかと個人的には感じている。またそれが、ディストピア的な思考のスタートである事に、そういう類の人たちは気が付いていない。つまりは、個の力に頼らない、個の力を必要としない、という考え方は、もはや人(選手)の存在を否定し、独裁的、中央集権的、トップダウン式で組織を動かす事こそが「優」である、とする考え方である。

人(選手)にロボットである事を求めるモノである。

もしそれが日本においての強い考え方であるならば、それが個性や強い個の出現を阻む元凶になっていると言えると思う。あるいは、目先の結果に目を奪われ、本当に必要とされる大きな結果を捨てている元凶だとも言えると思う。更には、「個の力に頼らない」「個の力を必要としない」、そういうシステムは存在せず、それを考える事は時間の浪費だと言える。なぜならば、状況というのは変化し続けたり、予想外を避ける事は不可能であるから。

むしろ方法論だけを求めると個は劣化の道を進む事になる。

もっと言えば、新しいモノは偶発性から生まれやすい、という事もある。それを考えれば、なるべくルールは少なく、なるべくシステムはシンプルに、そして、常に個である人(選手)の存在、能力、アイデアが、システムと対等かそれ以上の要素である余白を持たせる事が、実は理想的なシステムなのではないだろうか。弾力性の低いシステムは脆く、ある特定の条件下でしか機能しない。また弾力性とは個の力の事であり、その否定は進化を阻む。

また遠回りのようで結局は個を育てた方が近道でもあると思う。


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