分断の時代と言われているが、それは反知性主義とも密接だと思っていて、二元論的に落とし込む事で、あらゆるモノを単純化し、楽になり思考停止する、それが顕著に行われている時代なのだと思う。いわゆる「推し活」なるモノも、その1つの現象であると思っていて、つまりは「推すモノ」と「推さないモノ」を明確化してしまい、他を存在しないモノ、あるいは、否定すべきモノであると決め付けてしまう事で擬似的な幸福感を得る。
しかし当然、それは分断、つまり無益な争いを生む。
あらゆるモノは、1つの極端と、その反対にある1つの極端、その両極端を無効化して、尚且つ、その2つの意見や価値観の中間に答えが存在していると個人的には思っている。極端を議論するのは無意味であり、それは争いのための争いしか生まず、正しい在り方から遠ざかって行く。もちろん、メカニズムを理解し、1つの現象を切り取り理解しようとする事は第一歩と成り得るが、意外と世界は、膨大な曖昧さから確率で発生している。
曖昧さ、抽象性を受け入れられるのも知性である。
答えには「幅」があり、そして境界線というのは明確な線があるのではなくボンヤリしている、つまりグラデーションになっている。そしてそこは、2つを分ける境界線ではなく、むしろ、2つを融和させるためのゾーンである。また大概にして、より良い発展を生むのは、その曖昧なエリアでもある。具体的であるほど原理原則と成り得るが、原理原則があるという事は例外やランダム性もあるという事であり、それで世界は作られている。
じっくりと噛み砕く事の必要性。
試合数も多くなり、時間の経過は早くなった。多くの人たちは、やらなければならない事に追われ、じっくりと何かを考える事が難しい世の中になった。ファスト何某が流行るのも、それは時代性なのだと思う。しかしながら、まさにそれは商業主義的な、ただの消費であり、それに流されずに、踏ん張って物事を噛み砕かないと、得ているようで、満たされているようで、往々にして器の中には、薄い表面の残骸だけがある状態と成り得る。
そのままでは、それはゴミのようなモノ。
やはり、根本的な部分を解決するためには、その裏にある原因を正確に特定しなければならないし、ランダム性も加味しながら、更には、複数ある原因も1つ1つ抽出し、それを拾い集めてパズルのように組み立て、またそれを1つではなく、いくつかの完成した絵にしてみる、という作業が必要で、また修正も必要であり、そういう事は時間を費やさなければできない。重要な素因は、時間をかけなければ、考え抜かなければ見つからない。
考え抜いた末の答えなのか否かは実は判る。
なぜならば、考えれば考える程、断言できるモノは何も無く、答えは複数あると知るからで、唯一の答えがあるとしたら、それは「無知の知」。そして物事は膨大な数、天文学的な数の可能性の中から発生しており、それも1つの法則だと考えればそうであるが、要するに、判断基準を1つにする、あるいは、少なくする、そして物事を断定的に論ずる、という事の有無を見れば、それが考え抜いた末の答えなのか否かは実は判る、という事。
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